HEAVENESEリーダーマレ手記         「パラオの大和魂 ④」

パラオの大和魂 ④ 「緑の島のお墓」
ペリリュー島の戦いで特筆すべきは、この戦闘で島が焦土と化したのに、
現地住民の被害はゼロであったことだ。
島民は誰も死ななかった。
これがこの戦いのすごいところなのだ。
ここに日本精神がある。
なぜパラオ人の被害がゼロだったのか…。
それは、日本が決戦の前に現地住民を全員ペリリュー島の外へ非難させた
からだ。
島の人の命を死なせてはならない!!!まずは租界させる・・これが日本
軍の心だった。
平成21年から25年まで駐日パラオ大使だったミノル・ウエキさん
(83)は言う。
「日本軍は、ペリリューの島民を全員、疎開させることで保護してくれた。
だから島民に死傷者は出なかった。日本軍への感謝は何年たっても忘れ
ない」
(産経新聞ニュース)
当時9歳だったアマレイ・ニルゲサンさん(79)は、夜間を利用して両
親らとバベルダオブ島に疎開したといい、こう記憶をたどった。
「日本の兵隊がダイハツ(上陸艇)で連れて行ってくれた。バベルダオブ
に着いた後も、憲兵が2日かけてジャングルの中をエスコートしてくれた。
なぜ自分たちの島から避難しないといけないのか分からなかった。2年半
ほどして島に戻り、草木がなく石だけの島を見て、もし、残っていたら死
んでいたと思った。家族で日本軍に感謝した」
(産経新聞ニュース)
昭和18年6月現在でペリリューには899人の島民が住んでいた。
しかし日本軍は彼ら全員を自ら骨折って本島やその他へ移住させた。
ただ、島外へ避難させただけではない。
ジャングル中を、無事に安全な場所へ逃れられるように、2日間もかけて
エスコートしたというのだから驚きだ。
日本軍が、いかに島民を思っていたのかが伺える。
こういうことを、我々はもっと教えられなければならない。
島民によると、日本軍と一緒に戦う決意をしていた島民もいたという。
米軍の上陸が避けられない情勢となったとき、現地住民の代表者が中川大
佐に直談判した。
「自分たちも一緒に戦わせてほしい!」
すると中川大佐が激怒した。
「誇りたかき帝国軍人が、貴様らと戦えるか!!」
大佐の言葉に、住民代表は大きなショックを受けてその場を後にした。
まさか、このような扱いを受けるとは思わなかったからだ。
自分たちは、日本人と一緒に島を作り上げてきたのに…
築き上げてきた信頼関係は崩壊の危機に瀕した。
日本軍は空襲の目をかいくぐって、夜間、住民たちを強制的に
移住させた。
彼らが島を去る夜、中川大佐初め、帝国軍人は見送りにも来ていなかっ
た。
住民は失望しながら、舟に乗り込んだ。
舟が港から離れたあと、草むらから日本兵たちが現れ、ともに歌ってい
た歌を歌いながら、笑顔で手を振って別れを告げ始めた。
そのただ中に、激怒したはずの中川大佐もいた。
このとき、彼らは気づいたという。
中川大佐が、自分たちを救うために強制的に島を去らせたのだというこ
とを。
なんと美しくい話か・・・。
出来すぎている。
僕は数年前、自分が主催しているBRIDGEとう会でで、この話をした。
しかし、そのときも、これは作り話に違いないと思っていた。
日本を美化するために誰かが創作したのだろうと。
しかし、天皇皇后両陛下のパラオ訪問関連のニュースを調べる中で、これ
が本当だったと知った。
当時9歳だった前述のニルゲサンが、取材に答えてこう言っている。
「自分は見ていないので分からないが、両親からそんな話を聞いたことが
ある」
そして、元駐日パラオ大使だったミノル・ウエキさん(83)も言う。
「逸話は今でも語り継がれている」と。
なんと、この逸話は、他ならぬパラオで、語り継がれていたのだった。
逸話の出どころは、日本の戦争時代を美化しようと企てる似非保守の人々
ではなく、他ならぬパラオ人たちだったのだ。
彼らこそ、この逸話を語り継いで来たのだった。
それは、この話しの一部始終が事実でなかったとしても、話しの大筋とし
て実際に起こったことであったからい違いない。
いや仮に、この話を誰かが作り出したものであったとしても、
現実はこの逸話を喜んで語り継いできた
パラオ人がいるということが、どれほど驚きに値することか。
それがパラオの人々の感謝と日本への愛情を如実に物語っているからだ。
それほど、日本は愛されていたし、今も愛されているのだ。
戦後、島の人たちは、そこら中にちらばる日本兵の死体を見て涙した。
日本が負け、アメリカが支配者としてやってきた。
彼らは、日本人には見向きもせず、アメリカ人の遺体だけを片付けた。
ペリリューの人々は、涙の中で、日本人の遺体を埋葬した。
1947(昭和22)年8月15日、住民は島に戻った。
島民が日本兵の被害状況を具体的に知ったのは、昭和40年代に入ってか
らだったという。
日本から、慰問団がくるようになってから、初めて知ったのだ。
多くの遺骨が取り残されていのを知った島民たちは、遺骨収集に
取り組み始めた。
遺骨収集に関わったアントニア・ウエンティさん(85)方がいる。
彼女は、戦後ペリリューに移り住み、島民とジャングルに入り、遺骨収容
を始めたというのだ。
ある軍医の遺骨については自宅に持ち帰って供養し、軍医の妻には「だんな
様と一緒に住んでいるから安心して下さい」と手紙を書いたという。
我々日本人が忘れ去った人たちを、他ならぬ島民たちは忘れることなく、今
も感謝をもって遺骨収集に取り組んでくれている。
申し訳なく、感謝が尽きない。
彼女がつくったという「緑の島のお墓」という日本語の歌がある。
歌詞を噛み締めれが涙が溢れて止まらない。
ありがとう。ペリリュー島の皆様。
本当にありがとう。
「緑の島のお墓」
遠い故郷から はるばると お墓を参りに ありがとう
みどりのお墓の お守りは ペ島にまかせよ いつまでも
海の中にも 山の中 ジャングルの中にも 土の中
英霊よ よろこべ 安らかに 一緒に暮らそよ とこしえに
ペ島の願いは 唯1つ 日本とペリリューは 親善の友
かよわい力 よく合わせ 知らせておくれよ 祖国まで
伝えておくれよ 祖国まで 父母兄弟 妻や子に
僕らはみどりの 島暮らし
涙をおさえて さようなら
涙をおさえて さようなら

⑤に続く

日本精神を発信するイベントHEAVENESE BRIDGEでは、
皆様のお越しをお待ちしてます。
昭和の日、羽田空港スカイホールでスペシャル版開催。

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HEAVENESEリーダーマレ手記         「パラオの大和魂 ③」

語り継がれなかったわけ

大東亜戦争(第2次世界大戦)末期、南洋諸島に展開していた日本軍は補
給が途絶え、備蓄も尽き、負けるのは時間の問題だった。
しかし日本軍は降伏する事も逃げる事もなく、最後の最後まで戦う。
パラオにペリリューという島がある。
南北9キロ・東西3キロ・高さ80メートル・全体で20平方キロの珊瑚礁の小
島だ。
当時、日本軍はフィリピンを防衛する為に、その島に東洋最大といわれる
飛行場を建設していた。
エメラルドグリーンの海に囲まれた、南洋の小島は、1944年9月ついに戦
場となった。
これが、世に言う『ペリリュー島の戦い』である。
この度、天皇皇后両陛下が慰霊をしたのは、この戦いで命を落とした英霊
たちだ。
天皇陛下のおかげで、多くの人の知るところとなった。
日本は、中川州男陸軍大佐ひきいる守備隊1万2千の兵士のみ。
対するアメリカ軍の兵力は4万8千以上で、武器も弾薬も日本の6倍以上。
日本軍には、もともと勝ち目はない。
これは、いかに長く持ちこたえるかの戦いだった。
1944年(昭和19年)9月15日早朝、ウィリアム・リュパータス率いる米軍
が上陸を開始した。
圧倒的有利の米軍は、この地を三日で攻略する計画だった。
しかし日本軍は、決死の抵抗により、73日間も持ちこたえたのだった。
しかし、米軍は空からも絨毯爆弾の雨を降らせ、海上に展開する戦艦
からも砲撃を加えた。
次々に死んでいく日本兵。
遂に兵力は60名をきった。
73日間の攻防の末、そしてついに日本軍玉砕の時がくる。
「もはやこれまで」と意を決した中川州男大差は、11月22日、パラオ
地区集団参謀長宛に、訣別の電報を打つ・・・
『地区隊は本二十四日以降、統一ある戦闘を打切り、
残る健在者約五十名を以て 遊撃戦闘に移行、
あくまで、持久に徹し、米奴撃滅に邁進せしむ。
重軽傷者中戦闘行動不能なるものは自決せしむ。
将兵一同聖寿の万歳を三唱、皇運の弥栄(イヤサカ)を祈念し奉る。
集団の益々の発展を祈る』
そして、中川州男大佐は、武士の作法に則って切腹した。
根本甲子郎大尉以下、55名になってしまった残存部隊は、最後の決死隊
として突撃。
24日の夜から27日7時頃までの間に米軍と激しく交戦し、全員玉砕した。
「サクラ・サクラ」
日本の情緒を伝えるこの二語が、軍旗も機密書類も、すべて焼却したことを
意味する最後の暗号電文だった。
11月24日16時、参謀本部に電文は届いた。
さくら・さくら・・・
散りゆく桜の花のように、中川隊が最後まで戦い抜いて死んだことを告げ
たのだった。
この戦いのことを、多くの日本人が知らない。
しかし、アメリカでも、あまり語り継がれなかった。
だから硫黄島の戦いのように、日本人の耳にも届かなかったのだ。
それは、米軍の最精鋭部隊といわれた「第一海兵師団」の死傷率が約
50%と極めて高く、米国にとっても「不名誉な戦い」とされたからだ。
彼らにとって、語り継ぐのは恥をさらすことを意味した。
それほど、中川隊の戦いぶりは壮絶だったということだ。
日本を守るために、一日でも長く持ちこたえようと、必至に戦い、壮絶な
死を遂げた彼らを我々は忘れてしまっていた。
でも、天皇陛下はおぼえていた。
自分が始めた戦争ではない。
けれども、陛下は彼らの慰霊のために、日本国民を代表して訪れて下さった。

④に続く

4月29日 教科書が教えない日本の素晴らしさを発信する
BRIDGEスペシャル開催

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HEAVENESEリーダーマレ手記         「パラオの大和魂 ①」

天皇皇后両陛下が、戦後70年の節目にパラオを慰霊のために
訪れたことで、多くの人がパラオや、
日本軍が玉砕したペリリュー島の戦いに興味を持った。
とてもいいことだと思った。
でも、今のパラオがものすごい親日で、
しかも当時は日本の委任統治領だったと知ると
「日本の植民地だったのにどうして親日なの?」
と不思議がる人がいまだに多い。
そういう訳で簡単におさらいしてみよう。
まず、パラオが日本の植民地であったと認識している人が多いが
これは間違いだ。
日本はパラオを植民地にしていない。
正確にはパラオは日本の「委任統治領」だった。
「え?委任統治領って植民地でしょ?」
なんて言う声が聞こえてきそうが、大違いだ。
植民地というのは、ある国が他の国に武力で侵略し、
その国を勝手に自分たちのものにしてしまうことだ。
しかし委任統治領というのはこれとは違う。
これは、第一次大戦後、敗戦国の領土や植民地を統治するために、
国際連盟が、別の国に統治を委ねた統治形態のことを言う。
つまり日本は、パラオを植民地にしたのではなく、国際連盟によって
「パラオを統治してください」とその統治権を委任されたということだ。
なぜそうなったかと言えば、
日本は第一次世界大戦のとき連合国側にいたからだ。
ドイツ帝国は、オスマン帝国やハンガリー帝国と組んで
連合国と戦った。
日本は、敵国であるドイツの植民地だったパラオを攻め、
ドイツを蹴散らしてパラオをドイツから解放する。
そして戦争は終わる。
連合国側の勝利であった。
日本は戦勝国の一つとなったわけだ。
そして終戦後、講和の具体的な内容を取り決める国際会議が開かれる。
これが「パリ講和会議」だ。
賠償金や、国境、領土など、多くのことが話し合われ、
具体的に決めらた。
これが「ベルサイユ条約」だ。
ドイツは、この条約により、植民地をすべて放棄しなければならなくなった。
そしてドイツが放棄した植民地は、国際連盟が指定する国が
統治する形へと移行することが決められた。
これが「委任統治」である。
そして、国際連盟はパラオを日本の委任統治領にすることを決める。
かくして、講和会議の翌年、1920年、日本は国際連盟から
委任をうけて、パラオを統治することになったというわけだ。
まずは、この流れを正しく理解しておこう。
戦後、権力の移行がスムーズに行われないと、その国は大混乱する。
イラク戦争で、アメリカがフセイン政権を倒してしまったから、
イラクは内線状態に陥ってしまった。
アメリカ軍が去った後のイラクの歴史は混乱の一言に尽きる。
その結果、今はあのテロ集団イスラム国が大暴れしている。
シリアも状況は同じだ。
権力の空白があると、必ずそこを狙ってどこかの国が入ってくる。
権力が存在していても、統治機能が盤石でなければ、内戦が勃発する。
それは、歴史を見なくても、昨今のニュースを見れば明らかなことだ。
無政府状態という言葉をよく耳にするが、一つの国の権力が倒れたら、
その次を誰がどうするのかは限りなく重要な問題だ。
だから、ドイツの植民地から脱したパラオが、無政府状態にも
内戦状態に陥らず、他国からの不当な侵略の憂き目にも遭わず
発展していくためには、それなりの力を持った国の統治力による
秩序が必要だ。
国際連盟はそのために日本を選んだ。
これは、侵略が目的ではなく、統治される国の安定と発展、
将来の独立をサポートするめのもので、
統治を任された国は、そのために尽力しなければならない。
これが委任統治だ。
パラオは、戦争という不条理の歴史の流れに翻弄された。
しかしその結果、1920年、日本の委任統治領になった。
そしてこれが、パラオにとっては幸運だったのだ。
なぜなら、日本は委任統治を、植民地とはき違えることなく、
そもそもの目的どおり、責任をもってパラオの発展のために
尽くしたからだ。
その統治の仕方が素晴らしかったので、パラオの人は今も
「日本時代は素晴らしかった」と思い出す。
日本時代がなければ、今のパラオ共和国はない。
だから、パラオの人々は、今も日本に感謝しているというわけだ。
これは、日本人が誇るべき本当の歴史で、実際のところ、
パラオのために日本がなしたことは本当に素晴らしかったのだ。

②につづく

昭和の日は羽田スカイホールで日本の心を満喫しよう。

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羽田直前に撮影!

Aprll 13th. @somewhere in Tokyo.
HEAVENESE had a long day shooting a new music video.
Can’t tell you what exactly they did. it is a secret project that they are working on now.
But one thing for sure….the video will be awesome!
We will definitely share it when everything is done.

4月13日月曜日、都内某所でHEAVENESEのMuisic Vedeoの撮影が行われました。
何の曲を撮ったかは秘密です!
今までのHEAVENESEにはない新しい世界。
マレ&クミコのボーカルの新しいスタイルか・・・
突然決まった撮影なのですが、一体何のために、なぜ撮影したのか、いつの日か明らかになることでしょう。
加入が決まったばかりの琴奏者も参戦。
彼女にとっては、初のリハーサルの日が撮影となりました。
皆様に早くお見せできる日がくるといいなあ・・・
乞うご期待!!!

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最新版アーティスト写真撮影!

2月28日都内某所でHEAVENESEの新しいアーティスト写真の撮影がありました。

撮影してくれたフォトグラファーは、いろいろなアーティスト撮影などで活躍中の宮家和也氏。

彼との出会いは一枚のチラシ。
遡ること数年前、HEAVENESEファンの一人が、子供をつれて、青山の子供の城に行ったときのこと。
彼女は手に持っていたHEAVENESEのコンサートのチラシを、その場で知り合ったママに手渡したのです。
すると、バンドプロフィールを呼んでいた彼女が、「あの、リーダーに石井希尚さんって、もしかして・・・」

そうなんです。
実は彼女、マレ本をちょうど読んでいた読者だったのです。
初めての子供をさずかり、ご主人との関係にもいろいろと修正が迫られているときで、
ご主人と二人で、マレのベストセラー「この人と結婚していいの?」を読んでいたというのですね。
そのご主人こそ、今回のアーティスト写真の撮影をしてくれたフォトグラファー宮家和也氏です。

「ええー。そんなんですかあ!私もその本の読者で、マレさんご夫妻に間をとりもってもらって結婚したんですよ〜」
チラシを手渡しは本人はエキサイトしました。

そんなご縁で、その直後に行われたコンサートに夫を伴い来て下さった宮家ご夫妻。
そして、今回の撮影とあいなりました。
一枚のチラシ・・・そして一冊の本が紡いだ不思議な出会い。

この日、撮影現場にはデザイナーの通称ミケちゃんもいました。
撮影された写真をつかってデザインするのが彼女。
実は彼女もマレ本の読者で、男性のことで悩んでいるときにカウンセリングにやってきたクライアントさんだったのです。

さらに、メークの通称あーちゃん。彼女も読者でクライアント。実はアポなしで当時住んでいた地方の街から、いてもたってもいられなくなってキックバックカフェにやってきた伝説の女性。
「マレさん、アポなしで、突然やってた女性がいます」
秘書からそう伝言されマレは、たまたまカウンセリングの空き時間だったため、「じゃ、本人が希望するなら話ききましょうか」と。
そして無事カウンセリングを受けることができました。

フォトグラファーもデザイナーも、そしてメイクも読者の縁。
撮影現場では、本の話で盛り上がりました。
アーティストマレとカウンセラー石井希尚。
どちらも、なくてはならない顔なのです。

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