HEAVENESEリーダーマレ手記         「パラオの大和魂 ③」

語り継がれなかったわけ

大東亜戦争(第2次世界大戦)末期、南洋諸島に展開していた日本軍は補
給が途絶え、備蓄も尽き、負けるのは時間の問題だった。
しかし日本軍は降伏する事も逃げる事もなく、最後の最後まで戦う。
パラオにペリリューという島がある。
南北9キロ・東西3キロ・高さ80メートル・全体で20平方キロの珊瑚礁の小
島だ。
当時、日本軍はフィリピンを防衛する為に、その島に東洋最大といわれる
飛行場を建設していた。
エメラルドグリーンの海に囲まれた、南洋の小島は、1944年9月ついに戦
場となった。
これが、世に言う『ペリリュー島の戦い』である。
この度、天皇皇后両陛下が慰霊をしたのは、この戦いで命を落とした英霊
たちだ。
天皇陛下のおかげで、多くの人の知るところとなった。
日本は、中川州男陸軍大佐ひきいる守備隊1万2千の兵士のみ。
対するアメリカ軍の兵力は4万8千以上で、武器も弾薬も日本の6倍以上。
日本軍には、もともと勝ち目はない。
これは、いかに長く持ちこたえるかの戦いだった。
1944年(昭和19年)9月15日早朝、ウィリアム・リュパータス率いる米軍
が上陸を開始した。
圧倒的有利の米軍は、この地を三日で攻略する計画だった。
しかし日本軍は、決死の抵抗により、73日間も持ちこたえたのだった。
しかし、米軍は空からも絨毯爆弾の雨を降らせ、海上に展開する戦艦
からも砲撃を加えた。
次々に死んでいく日本兵。
遂に兵力は60名をきった。
73日間の攻防の末、そしてついに日本軍玉砕の時がくる。
「もはやこれまで」と意を決した中川州男大差は、11月22日、パラオ
地区集団参謀長宛に、訣別の電報を打つ・・・
『地区隊は本二十四日以降、統一ある戦闘を打切り、
残る健在者約五十名を以て 遊撃戦闘に移行、
あくまで、持久に徹し、米奴撃滅に邁進せしむ。
重軽傷者中戦闘行動不能なるものは自決せしむ。
将兵一同聖寿の万歳を三唱、皇運の弥栄(イヤサカ)を祈念し奉る。
集団の益々の発展を祈る』
そして、中川州男大佐は、武士の作法に則って切腹した。
根本甲子郎大尉以下、55名になってしまった残存部隊は、最後の決死隊
として突撃。
24日の夜から27日7時頃までの間に米軍と激しく交戦し、全員玉砕した。
「サクラ・サクラ」
日本の情緒を伝えるこの二語が、軍旗も機密書類も、すべて焼却したことを
意味する最後の暗号電文だった。
11月24日16時、参謀本部に電文は届いた。
さくら・さくら・・・
散りゆく桜の花のように、中川隊が最後まで戦い抜いて死んだことを告げ
たのだった。
この戦いのことを、多くの日本人が知らない。
しかし、アメリカでも、あまり語り継がれなかった。
だから硫黄島の戦いのように、日本人の耳にも届かなかったのだ。
それは、米軍の最精鋭部隊といわれた「第一海兵師団」の死傷率が約
50%と極めて高く、米国にとっても「不名誉な戦い」とされたからだ。
彼らにとって、語り継ぐのは恥をさらすことを意味した。
それほど、中川隊の戦いぶりは壮絶だったということだ。
日本を守るために、一日でも長く持ちこたえようと、必至に戦い、壮絶な
死を遂げた彼らを我々は忘れてしまっていた。
でも、天皇陛下はおぼえていた。
自分が始めた戦争ではない。
けれども、陛下は彼らの慰霊のために、日本国民を代表して訪れて下さった。

④に続く

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