ヘヴニーズブリッジ満員御礼

HEAVENESE BRIDGE PACKED OUT!!!
Thank you all that came out!!

ヘヴニーズブリッジ満員御礼。
ご来場下さった皆様、ありがとうございました。
昭和の日にふさわしく「昭和天皇」についての感動秘話が
ドラマチック語られ、
多くの人の目に光るものがありました。
日本人で良かったと
来場した多くの方に思っていただけた夜になったと
思います・・・


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HEAVENESEリーダーマレ手記         「パラオの大和魂⑤」

最終回 日本によって輝く南洋の国

①〜④にわたって、パラオの大和魂と題して書いてきたが、僕は戦争を美
化したり、日本を軍事大国化するたするための啓蒙活動をしているのでも
ない。
ただ、これは実話なのだから、もっと日本人が知るべきことだと思ってい
る。
日本は第一次世界大戦当時、東洋の国として、歴史上はじめて、西洋列強
の植民地主義と戦うことができた唯一の大国となったていた。
だから国際連盟によるパラオの委任統治が許された。
そして、日本統治時代が、パラオを植民地の悲惨から救い出したのだ。
④で書いた出来すぎた日本軍の感動的逸話も、確かに事実だった。
この日本人のスピリットに心を打たれたのは敵国アメリカも同じであった。
今、ペリリュー島の「ペリリュー神社」に日本人の魂を賞賛する記念碑が
建っている。
『この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。あなたが日本の国を通
過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の
勇気と祖国を憶うその心根を』
これはニミッツ提督の言葉であるとインターネットで流布しているが、
それは正しくない。
実際には誰の言葉であるかわからない。
しかし、日本と激しい戦いを繰り広げたアメリカ人の誰かが記したもので
あることは分かっている。
しかし日本は敗戦した。
そして、1920年から日本の委任統治領だったパラオは、アメリカの信
託統治領になる。
戦後、パラオの全てが変わった。
日本は悪。
アメリカは善。
この世界観は、日本ではGHQの統治時代に完全に定着し、日本は国家をあ
げて軍部批判を展開し、戦前の価値観の全否定へと舵を切った。
国のために決死の戦いを演じた軍人たちは、非難され、まるで罪人のよう
に扱われた。
重く暗い恥ずべき歴史だ。
同じ路線の教育は、パラオでも実施された。
それどころか、日本の工場が破壊されるなど、日本の痕跡の排除が徹底さ
れていく。
公用語が英語に変わり、教科書も書き換えられた。
しかし、日本を否定するアメリカの教育は、パラオに根付かなかった。
パラオ人は、日本への感謝を忘れず、反日的な考えを受け入れなかった
からだ。
なんとありがたいことか。
そんなパラオも、ついに独立するときがきた。
15世紀以降、西洋の植民地主義に翻弄され続けて来た南洋の島が、
初めて近代国家として独立するのだ。
1994年10月1日。パラオは「パラオ共和国」として、独立した。
国家には国旗が必要だ。
70余りの候補の中から選ばれた国旗。
それが今のパラオ共和国国旗だ。
そして、この国旗は、なんと日本に対する深い想いから生まれたものな
のだ。彼らは言う。
『私達は国旗の選択に相当苦労した。 大募者は悉く各島の人々であり、
それぞれの旗にパラオの歴史と伝統がこめられていた。 だから、選考委
員会は真剣であった。選考に日数をかけた。
でも、最終的にこの旗にきまったのは、日本の旗に一番似ているので、
最大の人気が集まった 日の丸の部分を黄色にしたのは、月を現す。周囲
の青地は海を意味する。
月は太陽が出ないと輝くことができない。つまり月は太陽によって支え
られ、月としての生命を持つ。太陽とは日本のことである。 海に囲まれ
たパラオという国は、日本の太陽の反射によって輝かねば生きられない
のである。
我々はまた戦争中に、日の丸を掲げて強大な米軍と交戦した日本軍将兵の
勇敢さと純粋さに、大きな魅力と尊敬を捧げている。 一万に及ぶ英霊たち
は私達に、勇気と国を想う心があれば、アメリカよりも強くなれることを
教えて死んだのである・・・』
ブルーは海。真ん中の黄色い円は月を表す。
日本の日の丸が太陽ならば、パラオはその光に照らされて輝く月であると。
月は日の光が無ければ輝かない。
パラオは日本という光がなければ輝かない国なのだと、この国旗は彼らの
想いを世界に伝えている。
「月」が、真ん中から少しズレているのは、日本に対する敬愛から、
同じにならにように少しずらしたというのだ。
真ん中でないことに彼らは、民族の「徳」を見出した。
なんということか。
相手を思う慎みの心、左右非対称を美とする日本精神は、
パラオに受け継がれたのだ。
国旗はその旗の下に、団結して戦い生きることの証である。
古代ペルシャの5000年前の金属製の旗印も、考古学者により発見され
ている。
旗とはその共同体の印である。
個人ではなく、その共同体が一つの旗しるしのもとに生きるということだ。
だから国旗には、その国の性質や理念を現しているものが多い。
パラオは、南洋の日本精神を、慎みをもって輝かせる国なのだ。
しかも、みずからの力で輝いているのではなく、
日本のおかで、輝くことができるのだと、世界にむけて語り続けている。
国旗とともに、ペリリュー兵士の歌も作られた。
「ペ島の桜を讃える歌」である。
それは彼らの心に刻まれている日本の心を歌い上げいるものだ。
彼らは、日本の桜を見たことがない。
それなのに、日本の兵士を桜にたとえ、日本情緒を見事に表現
している。
作詞者はオキヤマ・トヨミ氏、ショージ・シゲオ氏。
日本人ではなく、現地の人々である。
日本を慕って止まない心。それが国民の8割以上が、姓名のいずれかに
日本名を名乗る習慣となった。
詩の中にあるペリリュー兵士とは日本兵を意味している。
感動的なこの歌の歌詞をぜひ噛み締めてほしい。
「ペ島の桜を讃える歌」
1.激しく弾雨(たま)が降り注ぎ  オレンジ浜を血で染めた
強兵(つわもの)たちはみな散って  ペ島(じま)は総て墓地
(はか)となる
2.小さな異国のこの島を 死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち 弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)
もない
3.将兵(ヘいし)は桜を叫びつつ  これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ 別れの桜に意味深し
4.日本の桜は春いちど 見事に咲いて明日(あす)は散る
ペ島(じま)の桜は散り散りに 玉砕(ち)れども勲功(いさお)は
永久(とこしえ)に
5.今、守備勇士(もののふ)の姿なく  残りし洞窟(じんち)の
夢の跡
古いペ島(じま)の習慣で  我等勇士の霊魂(たま)守る
6.平和と自由の尊さを 身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし桜花 今では平和が甦る
7.どうぞ再びペリリューヘ 時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗(わび)し あつい涙がこみあげる
8.戦友遺族の皆さまに 永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む 桜とともに皆さまを
このたび、天皇皇后両陛下が、戦後初めてパラオを訪問するにあたり、
初代パラオ共和国大統領 クニオ・ナカムラ氏は、その喜びをこう
語った。
「(戦争について)忘れない、忘れたらだめですね。だけど、私たち
はもう許しています。
私たちは日本の国民を愛しています。私たちは天皇陛下を愛しています」
もし日本軍の基地がなければ、戦場になることもなかったペリリュー島。
しかし、無情にも島は焦土と化した。
日本が戦争に加わったから、島はやきつくされた。
それを恨もうと思えばいくらでもできる。
でも、彼らは、その事実はとっくの昔に許している。
それどころか、今も日本を愛し、そして我々以上に天皇陛下を愛している。
パラオは紛れも無く、大和魂の国だ。
日本人が忘れた心を、彼らは国旗を通して世界に輝かせているのだ。

お知らせ:
これは、僕が毎週主催している日本の心を発信するイベント
HEAVENES BRIDGEで話した内容を文章にしたものです。
4月29日(祝)は羽田空港TIAT SKY HALLにて昭和の日スペシャル
を開催します。
音楽とメッセージに魂を込めてお届けします。
お時間のある方は、ぜひお越し下さい。

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HEAVENESEリーダーマレ手記         「パラオの大和魂 ④」

パラオの大和魂 ④ 「緑の島のお墓」
ペリリュー島の戦いで特筆すべきは、この戦闘で島が焦土と化したのに、
現地住民の被害はゼロであったことだ。
島民は誰も死ななかった。
これがこの戦いのすごいところなのだ。
ここに日本精神がある。
なぜパラオ人の被害がゼロだったのか…。
それは、日本が決戦の前に現地住民を全員ペリリュー島の外へ非難させた
からだ。
島の人の命を死なせてはならない!!!まずは租界させる・・これが日本
軍の心だった。
平成21年から25年まで駐日パラオ大使だったミノル・ウエキさん
(83)は言う。
「日本軍は、ペリリューの島民を全員、疎開させることで保護してくれた。
だから島民に死傷者は出なかった。日本軍への感謝は何年たっても忘れ
ない」
(産経新聞ニュース)
当時9歳だったアマレイ・ニルゲサンさん(79)は、夜間を利用して両
親らとバベルダオブ島に疎開したといい、こう記憶をたどった。
「日本の兵隊がダイハツ(上陸艇)で連れて行ってくれた。バベルダオブ
に着いた後も、憲兵が2日かけてジャングルの中をエスコートしてくれた。
なぜ自分たちの島から避難しないといけないのか分からなかった。2年半
ほどして島に戻り、草木がなく石だけの島を見て、もし、残っていたら死
んでいたと思った。家族で日本軍に感謝した」
(産経新聞ニュース)
昭和18年6月現在でペリリューには899人の島民が住んでいた。
しかし日本軍は彼ら全員を自ら骨折って本島やその他へ移住させた。
ただ、島外へ避難させただけではない。
ジャングル中を、無事に安全な場所へ逃れられるように、2日間もかけて
エスコートしたというのだから驚きだ。
日本軍が、いかに島民を思っていたのかが伺える。
こういうことを、我々はもっと教えられなければならない。
島民によると、日本軍と一緒に戦う決意をしていた島民もいたという。
米軍の上陸が避けられない情勢となったとき、現地住民の代表者が中川大
佐に直談判した。
「自分たちも一緒に戦わせてほしい!」
すると中川大佐が激怒した。
「誇りたかき帝国軍人が、貴様らと戦えるか!!」
大佐の言葉に、住民代表は大きなショックを受けてその場を後にした。
まさか、このような扱いを受けるとは思わなかったからだ。
自分たちは、日本人と一緒に島を作り上げてきたのに…
築き上げてきた信頼関係は崩壊の危機に瀕した。
日本軍は空襲の目をかいくぐって、夜間、住民たちを強制的に
移住させた。
彼らが島を去る夜、中川大佐初め、帝国軍人は見送りにも来ていなかっ
た。
住民は失望しながら、舟に乗り込んだ。
舟が港から離れたあと、草むらから日本兵たちが現れ、ともに歌ってい
た歌を歌いながら、笑顔で手を振って別れを告げ始めた。
そのただ中に、激怒したはずの中川大佐もいた。
このとき、彼らは気づいたという。
中川大佐が、自分たちを救うために強制的に島を去らせたのだというこ
とを。
なんと美しくい話か・・・。
出来すぎている。
僕は数年前、自分が主催しているBRIDGEとう会でで、この話をした。
しかし、そのときも、これは作り話に違いないと思っていた。
日本を美化するために誰かが創作したのだろうと。
しかし、天皇皇后両陛下のパラオ訪問関連のニュースを調べる中で、これ
が本当だったと知った。
当時9歳だった前述のニルゲサンが、取材に答えてこう言っている。
「自分は見ていないので分からないが、両親からそんな話を聞いたことが
ある」
そして、元駐日パラオ大使だったミノル・ウエキさん(83)も言う。
「逸話は今でも語り継がれている」と。
なんと、この逸話は、他ならぬパラオで、語り継がれていたのだった。
逸話の出どころは、日本の戦争時代を美化しようと企てる似非保守の人々
ではなく、他ならぬパラオ人たちだったのだ。
彼らこそ、この逸話を語り継いで来たのだった。
それは、この話しの一部始終が事実でなかったとしても、話しの大筋とし
て実際に起こったことであったからい違いない。
いや仮に、この話を誰かが作り出したものであったとしても、
現実はこの逸話を喜んで語り継いできた
パラオ人がいるということが、どれほど驚きに値することか。
それがパラオの人々の感謝と日本への愛情を如実に物語っているからだ。
それほど、日本は愛されていたし、今も愛されているのだ。
戦後、島の人たちは、そこら中にちらばる日本兵の死体を見て涙した。
日本が負け、アメリカが支配者としてやってきた。
彼らは、日本人には見向きもせず、アメリカ人の遺体だけを片付けた。
ペリリューの人々は、涙の中で、日本人の遺体を埋葬した。
1947(昭和22)年8月15日、住民は島に戻った。
島民が日本兵の被害状況を具体的に知ったのは、昭和40年代に入ってか
らだったという。
日本から、慰問団がくるようになってから、初めて知ったのだ。
多くの遺骨が取り残されていのを知った島民たちは、遺骨収集に
取り組み始めた。
遺骨収集に関わったアントニア・ウエンティさん(85)方がいる。
彼女は、戦後ペリリューに移り住み、島民とジャングルに入り、遺骨収容
を始めたというのだ。
ある軍医の遺骨については自宅に持ち帰って供養し、軍医の妻には「だんな
様と一緒に住んでいるから安心して下さい」と手紙を書いたという。
我々日本人が忘れ去った人たちを、他ならぬ島民たちは忘れることなく、今
も感謝をもって遺骨収集に取り組んでくれている。
申し訳なく、感謝が尽きない。
彼女がつくったという「緑の島のお墓」という日本語の歌がある。
歌詞を噛み締めれが涙が溢れて止まらない。
ありがとう。ペリリュー島の皆様。
本当にありがとう。
「緑の島のお墓」
遠い故郷から はるばると お墓を参りに ありがとう
みどりのお墓の お守りは ペ島にまかせよ いつまでも
海の中にも 山の中 ジャングルの中にも 土の中
英霊よ よろこべ 安らかに 一緒に暮らそよ とこしえに
ペ島の願いは 唯1つ 日本とペリリューは 親善の友
かよわい力 よく合わせ 知らせておくれよ 祖国まで
伝えておくれよ 祖国まで 父母兄弟 妻や子に
僕らはみどりの 島暮らし
涙をおさえて さようなら
涙をおさえて さようなら

⑤に続く

日本精神を発信するイベントHEAVENESE BRIDGEでは、
皆様のお越しをお待ちしてます。
昭和の日、羽田空港スカイホールでスペシャル版開催。

http://www.heavenese.jp/index_j.html

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HEAVENESEリーダーマレ手記         「パラオの大和魂 ③」

語り継がれなかったわけ

大東亜戦争(第2次世界大戦)末期、南洋諸島に展開していた日本軍は補
給が途絶え、備蓄も尽き、負けるのは時間の問題だった。
しかし日本軍は降伏する事も逃げる事もなく、最後の最後まで戦う。
パラオにペリリューという島がある。
南北9キロ・東西3キロ・高さ80メートル・全体で20平方キロの珊瑚礁の小
島だ。
当時、日本軍はフィリピンを防衛する為に、その島に東洋最大といわれる
飛行場を建設していた。
エメラルドグリーンの海に囲まれた、南洋の小島は、1944年9月ついに戦
場となった。
これが、世に言う『ペリリュー島の戦い』である。
この度、天皇皇后両陛下が慰霊をしたのは、この戦いで命を落とした英霊
たちだ。
天皇陛下のおかげで、多くの人の知るところとなった。
日本は、中川州男陸軍大佐ひきいる守備隊1万2千の兵士のみ。
対するアメリカ軍の兵力は4万8千以上で、武器も弾薬も日本の6倍以上。
日本軍には、もともと勝ち目はない。
これは、いかに長く持ちこたえるかの戦いだった。
1944年(昭和19年)9月15日早朝、ウィリアム・リュパータス率いる米軍
が上陸を開始した。
圧倒的有利の米軍は、この地を三日で攻略する計画だった。
しかし日本軍は、決死の抵抗により、73日間も持ちこたえたのだった。
しかし、米軍は空からも絨毯爆弾の雨を降らせ、海上に展開する戦艦
からも砲撃を加えた。
次々に死んでいく日本兵。
遂に兵力は60名をきった。
73日間の攻防の末、そしてついに日本軍玉砕の時がくる。
「もはやこれまで」と意を決した中川州男大差は、11月22日、パラオ
地区集団参謀長宛に、訣別の電報を打つ・・・
『地区隊は本二十四日以降、統一ある戦闘を打切り、
残る健在者約五十名を以て 遊撃戦闘に移行、
あくまで、持久に徹し、米奴撃滅に邁進せしむ。
重軽傷者中戦闘行動不能なるものは自決せしむ。
将兵一同聖寿の万歳を三唱、皇運の弥栄(イヤサカ)を祈念し奉る。
集団の益々の発展を祈る』
そして、中川州男大佐は、武士の作法に則って切腹した。
根本甲子郎大尉以下、55名になってしまった残存部隊は、最後の決死隊
として突撃。
24日の夜から27日7時頃までの間に米軍と激しく交戦し、全員玉砕した。
「サクラ・サクラ」
日本の情緒を伝えるこの二語が、軍旗も機密書類も、すべて焼却したことを
意味する最後の暗号電文だった。
11月24日16時、参謀本部に電文は届いた。
さくら・さくら・・・
散りゆく桜の花のように、中川隊が最後まで戦い抜いて死んだことを告げ
たのだった。
この戦いのことを、多くの日本人が知らない。
しかし、アメリカでも、あまり語り継がれなかった。
だから硫黄島の戦いのように、日本人の耳にも届かなかったのだ。
それは、米軍の最精鋭部隊といわれた「第一海兵師団」の死傷率が約
50%と極めて高く、米国にとっても「不名誉な戦い」とされたからだ。
彼らにとって、語り継ぐのは恥をさらすことを意味した。
それほど、中川隊の戦いぶりは壮絶だったということだ。
日本を守るために、一日でも長く持ちこたえようと、必至に戦い、壮絶な
死を遂げた彼らを我々は忘れてしまっていた。
でも、天皇陛下はおぼえていた。
自分が始めた戦争ではない。
けれども、陛下は彼らの慰霊のために、日本国民を代表して訪れて下さった。

④に続く

4月29日 教科書が教えない日本の素晴らしさを発信する
BRIDGEスペシャル開催

http://www.heavenese.jp/index_j.html

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